EJPスタッフブログ

ソフトウェアやボードゲームの開発を行うEJP株式会社のスタッフブログです。

仕事へ向かうおばさまを見ると切なくなってしまう

わたしは幼いころは、私立の小学校に通い、比較的豊かな家庭環境だったような気がしています。

母は専業主婦でパートなどもしておらず、家に帰れば温かいご飯と団らんがまっていました。たまにする親子げんかも日常には欠かせなかったと思います。

ごく自然で平凡な家庭ですが、とても幸せだったのです。

 

突然訪れた

しかし、小学校2年生の時に父がなくなりました。

突然のことでしたし、小学2年生ではなんなのかもわかりませんでした。葬儀も大勢の人が訪れ、なにかのイベントなのかなというくらいにしか思ってなかったかもしれません。

思い出すと、ただただ線香に火をつけるのが楽しくて何本も何本も父の前に線香をあげていた記憶があります。

母や兄の悲しみはいまとなってはどれほどのものだったのでしょうか。

幼い私は、きちんと悲しめていなかったのです。このことで母や兄と、私との間に感情のギャップが生まれてしまったかもしれません。

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今日は、いない

父がなくなり、母は働いていませんし、私は私立の学校に通っているため、当然お金が必要になってきます。

しばらくして、父が経営していた会社で母は働くことになりました。

それを聞いた時のさみしさは今でも覚えています。

初めは週3日程度の勤務で、火曜と木曜は私が帰宅したら母はご飯を作って待っててくれました。

月水金曜日は出勤日で、私が帰宅しても母はいません。ただ、祖父がいた為、これくらいの時期からおじいちゃん子になったのだと思います。

またしばらくして、この生活になれてきたなぁと感じたころに、母は週5日の勤務になりました。

平日に母がいないことがすごくさみしくて、私は駄々をこねたと思います。仕事に行くことの意味を分かっていなかったために、母を困らせたでしょうし、今思うと反省と悲しさがあります。

祖父は父親の父親である為、早くになくなった息子に対する罪悪感のようなものを私の母に抱いているのか、とても優しく母をいたわっていました。

会社が遠く、帰宅が遅くなるため、「毎日タクシーで帰ってきなさい。」なんて祖父は言っていましたが、母は「そんなことしたらお金なくなっちゃうじゃない」と冗談みたいな会話をしていたことを無性に覚えています。

からしたら、本当にそうしてほしかったです。毎日、車で駅まで向かい、電車を1時間以上乗り継ぎ会社に向かうことは、私立で電車通学だった私は少しだけわかっていたつもりでした。

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なにもしてあげていない

母が平日、仕事を休んでいる記憶が全くありません。ちゃんと有給とかあったのかな?とにかく、がむしゃらに働いていました。

私が二十歳頃に転職に失敗して、実家へ帰ることにした時、母は昼間の仕事と、夜の仕事までして私を支えてくれました。

はっきりいって、こんなこと無理です。

一日、1,2時間の睡眠時間で働き続け、私の生活に支障がないように支えてくれたのです。その後、私は大きな挫折はなく、今のソフトウェア業界に転職が成功します。

なにか、ある度に私は母に支えられていました。しかし、そのことがいやでいやでしょうがなかったのです。自分の力で何かを築き上げたかったのです。

何か、形になるものを残して、成長したことを伝えたいなぁと思いながら数年前に、母はなくなりました。

結局、すねをかじったまま、何もできずにお別れしなければならなかったのです。

私は後悔し、今でも悲しくなります。母は幸せな人生を送れたのでしょうか。

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仕事へ向かうおばさま

こんな経験をもっているからか、切ない気持ちになる光景がわたしにはあります。

朝、おばさまがきれいなかっこをして仕事へ向かう姿をみると、無性にせつなくなるのです。なぜ、仕事へ行かねばならないのか。

まあ、理由はそれぞれあるでしょう。

単純に仕事が好きな人かもしれないし、暇だから働きに行っているのかもしれないし。しかし、私の記憶と重なると、その光景は後悔と悲しみに変わってしまうのです。

結局のところ、自分の親に勝つことはできないかもしれないと私は思います。自立しようとしても過程を見返した時に支えたくれたのは、まぎれもなく親です。

今では、自分の力で、何かができたことを証明するのではなく、支えたくれたひとのおかげで何かを築きあげられたことを実感したいなという気持ちです。